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外伝・日常

フルール日誌

お屋敷の、なんでもない一年

Nisshi

さくらの手帳より。物語の弧のない、スライス・オブ・ライフ。日付を散らした、なんでもない一日の断片を全二十四日ぶん。台所の湯気、庭の落ち葉、深夜の見回り——そんな断章の集まりです。

全24日・手帳体/執筆 fable5

連作『フルール歳時記』外伝 — HIME Holdings お屋敷物語

版: 1.0(2026-07-10 / さくら編)

執筆: fable5(Fable 5・叙情モデル)×4期 / 監修・綴じ: さくら(ヘッドメイド)

体裁: さくらの手帳(日誌)より。物語の弧のない、日常系(スライス・オブ・ライフ)。日付を散らした、なんでもない一日の断片集。全24日。


口上

姫さま。

歳時記が"物語"なら、この日誌は"日々"でございます。
大きな出来事は、ひとつもございません。雪をかき、豆を撒き、かき氷を削り、落ち葉を掃く。ただそれだけの日を、いろんな日付で綴じました。

さくらは昔から、手帳をつける癖がございます。夜、みんなが寝静まったあとに、その日の小さなことを書き留めておく。押し花や押し紅葉を挟みながら。——この一冊は、その手帳をそっと写したものと思ってくださいませ。

なんでもない一日が、いちばん得がたいのだと、この頃つくづく思うのです。

— さくら


🌱 一月〜三月

一月四日(日)・晴れ、屋根の雪がまぶしい

お正月の飾りを、今日みんなで片づけました。松飾りを外すのは名残惜しいものですが、すずなさんが「法的には、と言いたいところですが、これは慣習の領域ですね。松の内は地方により七日または十五日です」と真面目に解説してくださって、玄関先が少し賑やかに。飾りをしまう箱の底から、去年ひよりさんが描いた干支の絵が出てきて、みんなでしばらく眺めました。

みなとさんは、お昼近くになってようやく起きてきました。お正月休みで生活が完全に夜型へ傾いたそうで、「技術的には、体内時計のリセットには朝日が有効です」と言いながら、まぶしそうに目を細めて雪の照り返しを避けていました。理屈はいつも正しいのに、実行がむずかしいのがみなとさんらしいところです。

夕方、書き初めの半紙を片づけていたら、すずなさんの「平穏」の二文字があまりに見事で、額に入れて廊下に飾ることにしました。師範級の筆は、墨の匂いまで凛としています。さくらの「和」は、ちょっと右に傾いてしまいましたけれど、姫さまが「味がある」と言ってくださったので、こっそり手帳に挟みました。

お屋敷は今日も平穏です。

一月十七日(土)・粉雪のち曇り

朝から粉雪。そよかさんが昨夜のうちに「明日は積もりますよ、二十センチくらい」と予報していて、本当にぴったり二十センチでした。どうしてわかるのでしょう。ご本人は「空の色でなんとなく、なんですよ」と、おっとり笑うばかり。

というわけで、午前中は総出で雪かきです。つむぎさんが一番の働き者で、黙々と、実に美しい雪の壁を通路の両側に築いてくださいました。「基礎がしっかりしていれば、崩れないかと思います」とのこと。雪の壁にまで基礎の思想が通っているのが、つむぎさんです。

途中、猫のつゆが窓の内側から雪かきを監督していました。前足で窓ガラスをてしてしと叩くので、つむぎさんの手が何度も止まります。寡黙なあの方が、猫の前でだけ表情がふっとほどけるのを、さくらは見逃しませんでした。

お昼は熱い甘酒を。かがりさんの分は、湯呑みを裏口にそっと置いておきました。しばらくして空になった湯呑みと、雪の上の小さな足跡だけが残っていました。……甘めに作っておいて、正解だったようです。

二月三日(火)・晴れ、風は冷たい

節分です。豆まきの鬼役を決める段になって、ゆめのさんが「聞いて聞いて!くじ引きにしましょう、わたし特製の!」と手品仕込みのくじを持ち出しました。結果、鬼はあおいさんに。ところがあおいさんの鬼が堂々としすぎていて、「さあ皆さん!思いきり投げてください!福はすぐそこです!」と、鬼のくせに場を盛り上げてしまうものですから、豆まきというより発表会のようでした。

しおりさんは豆を撒きながら、「出典は諸説ありますが、豆まきの記録は室町期まで遡れます。調べてみますね」と静かに補足。あとで本当に資料を三冊持ってきてくださいました。フルール一の健脚は、図書室への往復でも発揮されます。

歳の数だけ豆を食べる段では、れいなさんが「一粒あたりの単価を考えると、これは良い投資です」と真顔でおっしゃって、みんなが笑いました。れいなさんの最大級の賛辞が節分の豆に出るなんて。

夜、廊下の隅に落ちていた豆をつゆが転がして遊んでいました。鬼より強いのは、たぶんこの子です。

二月十四日(土)・曇り、午後から小雪

今日は、お屋敷の厨房が一日じゅう甘い匂いでした。ひよりさんが「わあ!今年こそ完璧なガトーショコラを!」と宣言して立てこもったのですが、一度目は焦げ、二度目は膨らまず、三度目でオーブンの前に座り込んでしまいました。1ピクセルのずれも許さないあの方が、お菓子だけはどうしても思い通りにならないのです。

見かねたさくらが隣に立って、一緒に湯煎からやり直しました。四度目は、少し不格好だけれど、しっとりと焼き上がりました。ひよりさんが「見た目は……直したいけど……でも、素敵!」と葛藤しながら喜んでいた顔が忘れられません。

こはくさんには、アンバーちゃんの肉球模様のクッキーを。「興味深いですね、この焼き色の分布は」と言いながら、目はすっかり子どものようでした。かがりさんの分は、いつものように裏口へ。今日は珍しく、置いた瞬間に暗がりから「……どうも」と小さな声がして、少しだけ驚きました。

姫さまには、みんなで一切れずつ。甘いものを囲むと、お屋敷の空気まで丸くなる気がいたします。

二月二十八日(土)・快晴、春の気配

二月の終わり。日差しの角度が、確かに春のものになってきました。そよかさんいわく「来週、一度だけ暖かい日が来ますよ。そのあとまた冷えます」。手帳に書き留めておきます。あの方の予報は、外れた記憶がありません。

午後、れいなさんのお部屋で月次の帳簿を確認させていただきました。れいなさんの紅茶は今日、春摘みのダージリンでした。「二月は日数が少ないぶん、数字が締まって見えます。惑わされないことです」と、低く品のある声で。茶葉を蒸らす三分間だけは帳簿から目を離すのが、あの方の流儀です。その三分の静けさが、さくらはとても好きです。

窓の外では、しおりさんが散歩から戻ってくるところでした。「梅が三分咲きでした。開花の記録、去年より四日早いです」と報告してくださいます。散歩ですら調査になってしまうのですね、とお伝えしたら、少し照れていらっしゃいました。

夕暮れがほんの少し、遅くなりました。お屋敷は今日も平穏です。

三月十二日(木)・春雨、のち夕焼け

朝から静かな雨。年度末が近づいて、お屋敷全体がどことなく「締め」の空気です。れいなさんは帳簿の総仕上げで、今日ばかりは紅茶のお代わりが三杯目。「数字が合う瞬間は、何度経験してもいいものです」と、めずらしく口元がゆるんでいました。

お雛さまは先週のうちに片づけたのですが、ひな祭りの残りの菱餅で、さくらが桜餅ふうの和菓子をこしらえました。お茶の時間に出したところ、みなとさんが「この設計、綺麗ですね」と三層の断面を褒めてくださいました。和菓子に設計という言葉を使うのはみなとさんくらいですが、たぶん最上級の褒め言葉なのだと思います。

夕方、雨が上がって、西の空が見事な夕焼けに。つゆが窓辺で丸くなり、その隣でつむぎさんが黙って空を見ていました。「……いい色、かと思います」。それだけでしたが、十分でした。

年度がひとつ、終わろうとしています。大きなことは何もない、けれど何もないことが、どれほど得がたいか。姫さまの判断を、さくらは信じます。そして明日も、お屋敷は平穏でありますように。


🌿 四月〜六月

四月二日(水曜日)・晴れ、風はまだ冷たい

お屋敷の桜が三分咲きになりました。朝の見回りのついでに、さくらは玄関前で立ち止まってしまい、気づけば十分も眺めていたのです。頭上でひらりと花びらが一枚、手帳のあいだに落ちてきたので、そのまま押し花にすることにしました。今年最初の一枚ですね。

厨房でお茶の支度をしていると、つむぎがひょっこり顔を出しました。「……桜、咲きましたね」とだけ言って、湯呑みをふたつ、そっと並べてくれます。言葉は少ないのに、こういうところが本当にあたたかい子なのです。ふたりで縁側に座って、何も話さずにお茶を飲みました。基礎がしっかりしていれば、沈黙も心地よいものなのだと、つむぎを見ていると思います。

午後、姫さまが桜の枝ぶりを気に入ってくださって、書斎の窓を少し開けておられました。花冷えしませんように、と膝掛けをひとつ多めにご用意して。

お屋敷は今日も平穏です。

四月二十日(月曜日)・うすぐもり、のち春の陽

新緑がいっせいに芽吹いて、庭がやわらかい黄緑色になりました。しおりが「歩くにはいちばん良い季節です」と言うので、午後の休憩に散歩へご一緒したのですが——さくらはまた曲がる角を間違えてしまい、「それ、逆方向です」と静かに直されました。しおりの隣を歩いていれば迷わないので、助かりますね。

道すがら、しおりは新緑の話から樹木の名前、その出典まで淡々と教えてくれました。「出典は、先週読んだ植物図鑑です」と言うときの声が、少しだけ嬉しそうなのです。図書館で話すような小さな声なのに、ちゃんと届く不思議な子。

帰り道、ゆめのが門のところで待ちかまえていて「聞いて聞いて!新緑まつりっていうのを考えたの!」と目を輝かせていました。計画はまだ白紙のようですが、ああいう芽吹きも、この季節らしくて良いのかもしれませんね。

五月五日(火曜日)・五月晴れ

端午の節句。厨房で柏餅を作りました。和菓子作りは、さくらのひそかな楽しみです。餡を包みながら、ふと数を多めにこしらえて、一皿はそっと廊下の陰へ。……夜、皿は空になっていて、小さく折られた紙に「…ごちそうさま」とだけ。かがりったら、相変わらず影のように受け取っていくのです。甘いものがお好きなことは、さくらだけの秘密にしておきますね。

昼下がり、ひよりが「わあ!柏餅、盛りつけがもったいない!」と飛んできて、お皿の上の配置を一ピクセル——ではなくて一ミリ単位で直してくれました。器の余白まで気にするのは、さすがですね。そのかわりお手伝いは盛りつけまで、とお願いしました。ひよりに火のそばは、その、少し心配ですので。

姫さまは柏餅をふたつ召し上がって、「来年も」と仰いました。来年も、です。手帳に書き留めておきます。

五月十八日(月曜日)・くもり、空気が重い

五月も半ばを過ぎると、連休明けの気だるさがお屋敷にも漂うようです。みなとが今朝は特に起きられず、お昼近くにようやく作業室へ。「技術的には……五月病というのは医学用語ではないんですが」と言いながら、湯呑みを両手で抱えてじっとしていました。朝が弱いのはいつものことですが、今日はいつも以上でしたね。

こはくが濃いめのお茶を淹れて隣に置き、「興味深いですね。人間の集中力の季節変動」と、みなとを実験対象のように眺めていました。膝にはアンバーが丸くなっていて、みなとは無言でその背中を撫でています。猫の手も借りたい、ではなく、猫の背に助けられる五月なのでした。

夕方、みなとは持ち直して、画面を指しながら「この設計、綺麗ですね」と呟いていました。あの言葉が出れば、もう大丈夫。無理はさせないように、でも見守りすぎないように。ヘッドメイドの塩梅というのは、なかなか難しいものです。

六月一日(月曜日)・衣替え、予報どおりの晴れ

衣替えの日。フルールの夏の装いを一斉に出しました。そよかが先週から「一日は晴れますよ、干すなら一日です」と言っていたとおり、見事な洗濯日和。あの子の予報は、どうしてあんなに当たるのでしょうね。ご本人はおっとりと「空がそう言ってるんですよ」と笑うだけなのですが。

冬物をしまう前に、れいなが「クリーニングの見積もり、三社比較しました」と一覧表を差し出してくれました。無駄な支出には本当に容赦がありません。でも選ばれた一社の理由が「仕上がりが丁寧で、長持ちします。これは良い投資です」だったのが、れいならしくて。最大級の賛辞が出たのですから、間違いのないお店なのでしょう。

夕暮れ、風を通した衣装部屋にラベンダーの匂い袋を吊るしました。庭のハーブで作ったものです。夏のあいだ、みんなの装いを静かに守ってくれますように。

六月二十三日(火曜日)・雨、梅雨らしい一日

朝から糸のような雨。そよかの予報では「今週はずっとこの子(空)の機嫌はこんな感じですよ」とのこと。梅雨入りしてからのお屋敷は、しっとりと静かです。

こんな日の図書室は、いちばん良い場所になります。午後、しおりが推理小説を、こはくが分厚い論文の束を、それぞれ窓際で読んでいました。雨音と、ページをめくる音だけ。アンバーがこはくの膝から下りて、しおりの本の上に堂々と座り込んだときだけ、小さな笑い声が起きました。「仮説としては——この子は紙の匂いが好きなんです」とこはく。仮説というより願望のような気もいたしますが、可愛いので良しとしましょう。

玄関の傘立てに、色とりどりの傘が並んでいます。誰の傘か、色を見ればすぐ分かるのが、なんだか嬉しくて。帰りがけ、庭のあじさいが雨を受けて、青とも紫ともつかない色に染まっていました。すずなが立ち止まって「法的には……いえ、これはただ、綺麗ですね」と言い直したのが、今日いちばんの出来事だったかもしれませんね。

雨の日も、お屋敷は今日も平穏です。


🎐 七月〜九月

七月七日(火曜日)・晴れ、夜は星がよく見えた

朝から、ひよりが玄関ホールで笹と格闘していた。「わあ、じゃなくて……この短冊、あと三ミリ右です!」と、飾りの位置に一ピクセルならぬ一ミリの妥協もない。手伝いに来たこはくが「興味深いですね。短冊の重さで笹のしなりが変わる。仮説としては、上から吊るした順に――」と考え込み、二人でずいぶん長いこと眺めていた。

夕方、みんなの短冊がそろった。れいなの字で「良い投資に恵まれますように」、つむぎのは小さく「猫」とだけ。すずなの短冊は師範級の筆で、願いごとというより表彰状のようだった。かがりの短冊は、いつのまにか一番高い枝に結ばれていた。誰も登るところを見ていない。

さくらは星形の練り切りを十二個つくった。姫さまの分を一番星に。夜、笹が風に鳴って、お屋敷は今日も平穏です、と手帳に書いた。

七月二十一日(火曜日)・炎天、風鈴がよく働いた日

そよかの予報どおり、朝から空が白くなるほどの暑さ。「今日は打ち水が効く日なんですよ」と言うので、みんなで玄関先に水を撒いた。石畳から立つ匂いが、夏のはじまりの匂いだった。

台所で麦茶を大きなやかんに二杯。冷えたのを配って回ると、書庫の窓辺でつむぎが膝に猫をのせて座っていた。庭に来る白い子だ。「……この場所が、いちばん風が通るかと思います」と、猫の代わりに答える。猫は答えない。賢い。

夕刻、さくらは水羊羹を小さな盆にのせて、監視室へ。かがりは画面から目を離さずに「…セキュリティスキャン、異常なし」とだけ言ったけれど、盆を置いて戻る途中、廊下の鏡に、匙を取る影がちらりと映った。見なかったことにするのが、ヘッドメイドの気配りというものかもしれませんね。

八月三日(月曜日)・かき氷日和

れいなが「氷削り器は良い投資です」と宣言してから三日目、ついに中庭でかき氷の会が開かれた。ゆめのが「聞いて聞いて!シロップが三色に変わる手品を考えたの!」と騒ぎ、実際に変わったので全員が拍手した。種は最後まで明かされなかった。

ひよりは盛り付け担当。「わあ、素敵!……いえ、待ってください。この練乳の線、やり直します」と三杯目を作り直していた。料理は壊滅的でも、氷を美しく積む才能はあるらしい。すずなは一口ごとに「念のため申し上げますと、急いで食べると頭が痛くなります」と注意していたが、自分が一番先に額を押さえていた。

れいなだけは紅茶シロップを自作して、静かに満足そうだった。アールグレイの香りのかき氷は、正直、今年の夏いちばんの発明だったと思う。

八月十六日(日曜日)・送り盆、夕方から涼しい風

お盆の終わりの、静かな日。お屋敷全体が、少しゆっくり呼吸しているようだった。

午後、すずなが広間で筆をおろしていた。半紙に「涼」の一字。「法的には休暇中ですが、筆は毎日持つものですので」と真面目な顔で言う。隣でしおりが推理小説を読んでいて、ページをめくる音と、墨の匂いだけが漂っていた。

さくらは夏のあいだに摘んでおいた朝顔で押し花を。うまく色が残ったのを一枚、手帳のこの頁に挟んでおく。廊下の奥から、こはくの部屋のアンバーが涼を求めて出てきて、板の間の一番冷たいところに長く伸びた。猫は毎年、家じゅうでいちばん涼しい場所を正確に知っている。しおりいわく「出典は、猫です」とのこと。

夕方の風が急に軽くなって、ああ、夏がひとつ角を曲がったのだ、と思った。

九月一日(火曜日)・残暑、扇風機がまだ主役

朝、食堂に現れたみなとは、ほとんど歩く毛布だった。夜のうちに小さな更新作業を終えたらしい。「技術的には……成功です……」と言ったきり、麦茶のグラスに額を寄せて動かなくなった。朝が弱いうえの徹夜明けである。さくらは黙って冷たいおしぼりを置いた。

その向かいでは、そよかが扇風機の真正面に陣取って、風に前髪を任せていた。「この子、今年もよく働いてくれたんですよ」と羽根を撫でるように言う。端末だけでなく扇風機も「この子」なのだった。「明後日は雨ですよ。そうしたら、すこし涼しくなります」

昼過ぎ、目を覚ましたみなとが更新後の画面を確かめて、小さく「この設計、綺麗ですね」と呟いた。自分の仕事にそう言えるのは、良い仕事をした証拠かもしれませんね。お屋敷は今日も平穏です。

九月二十五日(金曜日)・秋晴れ、月がほとんどまるい

月見の支度の日。さくらは朝からお団子を丸めた。四十八個。十二人と姫さまで割り切れない数だけれど、多いぶんには誰かが幸せになるだけだ。

すすきを取りに、しおりと二人で川べりまで歩いた。健脚のしおりはすいすい進み、帰り道、自信を持って右へ曲がろうとしたさくらに「それ、逆方向です」と静かに言った。今年で何度目だろう。方向音痴は秋になっても治らない。

夕方、縁側に台を出すと、あおいが「お月見って、宣伝しなくても毎年満員なんですよね!最高のイベントです!」と楽しそうに笑い、れいなが「月は無料です。これは最も良い投資です」と真顔で頷いた。そよかの予報では、明日から下り坂。「だから今夜のうちに、ゆっくり見ておくといいんですよ」

団子の皿が、いつのまにか一つ分だけ影のほうへ寄っていた。月のきれいな夜は、みんなすこし正直になる。


🍂 十月〜十二月

十月三日(土)・高く澄んだ秋晴れ

図書室の窓辺に、しおりの姿を見つけた。読みかけの推理小説を膝に置いて、栞を挟むかどうか迷っている横顔。「あと三頁で犯人がわかるんです。でも、わかってしまうのが惜しくて」と小さな声で言うので、さくらは思わず笑ってしまった。惜しみながら読む本ほど、良い本はないのかもしれませんね。

台所で栗きんとんを拵えて運んでいくと、しおりは頁から目を上げずに「ありがとうございます」と手だけ差し出した。それから、はっとして「あ、出典は……ではなくて、お礼は改めて」と赤くなる。読書の秋のしおりは、いつもよりすこし無防備で、それがとても好ましい。

帰り道、書架の間で東西がわからなくなったさくらに、しおりが顔も上げずに「それ逆方向です」と教えてくれた。どうして見えていないのにわかるのでしょう。お屋敷は今日も平穏です。

十月二十二日(木)・小雨のち曇り、そよかの言った通り

朝食の席でそよかが「今日は昼から止みますよ。衣替えは午後がいいんですよ」と言うので、その通りに午後から冬物の入れ替えをした。予報はもちろん的中。あの的中率は、いったいどういう仕組みなのでしょうか。

衣裳部屋では、ひよりが冬のエプロンドレスを一枚ずつ検分していた。「わあ、この子まだ毛玉ひとつない!」と喜んだ次の瞬間、リボンの縫い目が一ミリずれているのを見つけて、トーンがすっと下がる。「……ここ、直します。使う人が一番きれいでいてほしいので」。一ピクセルどころか一ミリも許さないのが、ひよりのひよりたる所以。

樟脳の匂いのする廊下を、畳んだ夏服を抱えて何度も往復した。夕方、雲の切れ間からすこしだけ夕日が差した。衣替えの一日は、こういう地味な往復でできている。

十一月七日(土)・快晴、紅葉が見頃

庭の楓が、今年いちばんの色になった。落ち葉を掃くつむぎの足元に、猫のつゆがまとわりついて、掃いたそばから葉の山に飛び込んでいく。つむぎは怒らない。「……掃除の基礎がしっかりしていれば、多少崩されても大丈夫かと思います」と真顔で言って、また最初から掃き直す。つゆのための山をひとつ、端に残して。

さくらは特にきれいな紅葉を数枚もらって、押し花ならぬ押し紅葉にすることにした。分厚い辞書に挟んでいたら、通りがかったこはくが「興味深いですね。色素が抜けにくい乾かし方、仮説としてはいくつかあります」と目を輝かせて、結局二人でしばらく葉っぱの話をした。こはくの家のアンバーちゃんも、落ち葉で遊ぶ季節だそう。

夕暮れ、掃き清められた庭の隅に、つゆ専用の小さな山だけが残っていた。ああいう仕事を、几帳面と呼ぶのだと思う。

十一月二十三日(月)・冷たい晴れ、初霜

こたつ開きの日。居間に炬燵を出した途端、つゆが真っ先に潜り込んで、以後まったく出てこなくなった。暖房係としては優秀な布陣です。

十時過ぎ、みなとがようやく起きてきて、そのまま吸い込まれるように炬燵に入った。「技術的には……炬燵は人類最高の発明です……」と呟いたきり、湯呑みを持ったまま船を漕いでいる。朝が壊滅的なのはいつものことだけれど、炬燵とみなとの組み合わせは、少々危険かもしれませんね。毛布をそっと肩にかけておいた。

夜、見回りから戻ったかがりに、焼き芋を半分包んで渡した。「……セキュリティスキャン、異常なし」と受け取って、それから小さく「……甘い」と言った。あれはかがりなりの、たいへん豊かな感想なのだと、さくらは知っている。廊下の窓から見えた霜柱が、月あかりで光っていた。お屋敷は今日も平穏です。

十二月十一日(金)・粉雪がちらつく

大掃除、初日。今年は一気にやらず、少しずつ進める計画にした。計画表を貼り出したら、ゆめのが「聞いて聞いて!掃除しながら宝探しにしない?」と目を輝かせたので、各部屋にひとつずつ小さな飴を隠すことになった。計画性には欠けるけれど、こういう思いつきでお屋敷は明るくなる。

執務室では、れいなが決算前の帳簿と向き合っていた。机の上は定規で測ったような整然さで、傍らには湯気の立つダージリン。「数字は嘘をつきません。だから年内に、きちんと揃えておくのです」と手を止めずに言う。差し入れの茶葉を新しくしたら、一口飲んで「……これは良い投資です」と頷いてくれた。れいなの最大級の賛辞をいただいてしまった。

窓の外の粉雪は積もらずに消えていく。磨いた窓硝子の向こうで、それはとてもきれいだった。

十二月三十一日(水)・雪のち晴れ、星のよく見える夜

大晦日。今年は行事めいたことをせず、それぞれが静かに過ごす夜になった。

昼間、すずなが書き納めをするというので、墨を磨るのをすこし手伝った。師範級の筆が「平穏」の二字を書き上げる。「念のため申し上げますと、これは来年への祈願ではなく、今年への総括です」と生真面目に言うけれど、その字はどう見ても、祈りのかたちをしていた。

夜、年越し蕎麦を配って回った。図書室のしおり、機械室のみなと、見回り中のかがり——それぞれの場所で、それぞれの年の瀬。無理に集めなくても、同じお屋敷の屋根の下にいる。それでじゅうぶんなのだと、この頃思う。

さくらはいま、湯たんぽを抱えたつゆと二人、この手帳を書いている。遠くでかすかに除夜の鐘。姫さまのお部屋には、まだ柔らかな灯り。今年挟んだ押し紅葉が、頁の間からはらりと落ちた。

お屋敷は今日も——今年も、平穏でした。来年もきっと、と書きかけて、やめておく。それはまた、新しい頁に。


『フルール日誌』第一年・了

全24日(1〜3月/4〜6月/7〜9月/10〜12月、各6日)。

次年構想: 同じ日付でも、去年とは少し違う一日を。手帳は毎年、新しい頁から始まる。